Flight誌1932年4月1日号より Orlebar空軍中佐による高速飛行に関する発表(Wing Com. Orlebar on High-speed Flying)非公式翻訳

英国がシュナイダートロフィーレースに参戦するため、1926年に結成した高速飛行小隊(High Speed Flight)の元司令官であったA.H.Orlebar空軍中佐がシュナイダートロフィーレース機の飛行について説明したという記事です。既にこの年代でハイGターン時のパイロットへの影響などが知られていたりするなど、シュナイダートロフィーレースのパイロット目線の貴重な証言が紹介されています。(acha_pi)

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 A.H. Orlebar, A.F.C.空軍中佐は高速飛行に関する発表を3月23日にRoyal United Service Institutionの前で行った。発表には空将Edward Ellington卿, K.C.B., C.M.G., C.B.E.が議長として出席された。高速飛行隊の前司令官であったOrlebar氏が説明する内容の多くはFLIGHT(本誌)の読者にとって馴染み深いものであるが、同発表は聴衆の陸軍と海軍関係者に大きな印象を与え、彼らを非常に感心させた情報を多く与えたように思われる。

 Orlebar空軍中佐は冒頭で、このテーマ(高速飛行に関して)の扱い方には様々な方法があると説明した。ある者はエンジンの熱から何杯の紅茶がいれられるかについて述べるかもしれないし、ある者は高度に技術的な議論に持ち込むかもしれない。しかし同氏はこのどちらでもなく、より広い視点から見て、高速飛行の利用を議論することを提案した。

 英国空軍の高速飛行との関係は1927年シュナイダートロフィーレースの参戦を目的とした「高速飛行小隊(High Speed Flight)」が発足した1926年に遡る。操縦練習のため、それまでは民間人にのみ使用されており空軍には馴染みのなかったフロート付きのBamelやGloster Ⅲなど様々な機体が使用された。これらの最高速度は約240 m.p.h. であり、現代の空軍機よりも若干速い程度であった。空軍の量産機の最高速は150 m.p.h.を超えない程度であった。また、これらの旧式機体はGloster Ⅳ及びSupermarine S.5などの1927年大会に向けて開発された新型機に比べて構造的にも空力特性的にも劣っていた。レース機体は大会の直前に飛行隊に渡され、大会直後に飛行隊は解散された。1929年の高速飛行隊は前回大会の機体を練習機として使用できた点でより恵まれており、(前回大会出場機は)実に良い練習機にできるとわかった。

 同氏は次に、大会がなぜ陸上機ではなく水上機を使用しているのか説明した。機体の平均速度の向上はより速い離陸・着陸速度が求められることを意味しており、このような速度に到達できる非常に長く、平坦な平面は水上にしかないという。実際、同氏は陸上機のフェアリングのない主脚は水上機の流線型のフロートよりも多く空気抵抗を発生させると考えていた。一般的な水上機よりも陸上機の戦闘機の方が上空でレース機に似たような挙動をすることから、高速飛行隊へ選ばれたパイロットのほとんどは陸上機の操縦経験者であった。しかし、離着水の方法は一風変わっていた。

 離水時、ラダーが効き始める速度に達するまでは機体は左へ流される。離水の最初の段階では水しぶきがひどく、パイロットの前方視界がふさがるほどであった。この状態ではパイロットは機体を風上の右側に向け、顔を下げてゴーグルが濡れないようにし、操縦桿を右後ろいっぱいに引き切り、操縦系統が効き始めるようになるまでただ待つ以外にできることは無かった。離水時の後半ではフロートにかなり大きい荷重がかかり、フロート本体のV型の形状以外に衝撃を吸収する部位は無かった。逆にこれは機体の構造の強度に注目するきっかけとなった。機体は離水できるようになるまで1マイルほどかかり、そこから難なく上昇できるようになるまでもう1マイルほどかかった。機体が離水した直後に突然エンジンが止まった場合、着水するまで3マイルほどかかった。また高度200 ftでエンジン全開にしてから機首を起こせるようになるまで3マイルほどかかった。

 着水する際、パイロットは160 mphでアプローチに入る。スピードは緩やかに減少する。そして110 mph程度で着水する。そっと着水した後機体は非常に急激に減速するため、パイロットは前方に投げられゴーグルを計器盤にぶつけたりしないよう、操縦席の後ろいっぱいまで背中を押さえつけないといけなかった。着水には静かな水面が求められているが、波のない水面は逆に高度感覚を狂わせてしまう。高速飛行では離水だけが主な問題点であった。またフロートは世界速度記録に挑むような機体のスピードについて行くようにつくられていた。このため高波や、白波(例えば15 mphの風)が立つような条件では離水ができなかった。

 高速の機体はプロペラ設計技師にも挑戦を与えた。フロートの抵抗は大きく、高ピッチのプロペラは加速性能に貢献しただけであった。しかし、上空では機体は操縦が容易であった。一度だけテール部のフラッター現象が発生したが、この問題は克服された。発生した事故などはすべて離着水の時に起こったものであった。周回コースの飛行はパイロットにとって特に難しいものではなかった。パイロットは近くの物を見たりしない限り、特に速いスピードを感じることは無かった。パイロットにとって、操縦の容易さが飛行の爽快感を与え、確かにこれは爽快感のあるものであった。330 mphのスピードに達すると、パイロットが手や足で操縦しなくても直線飛行し続けることが可能になった。燃料の消費率は3 mpgであった。

 機体の旋回時では、必ず起こるわけではなかったが、パイロットに悪い影響が起こる可能性があった。急な旋回は目に血を運んでいる動脈から血をひいてしまう。最初の影響は首周りがきつく感じるようになり、次に視界がぼやけはじめ、そして「ブラックアウト」が起こる。だが、機体に十分慣れると首周りがきつく感じる程度で旋回を行えるようになる。後遺症などは発生せず、機体が直線飛行に戻った瞬間にこの影響は解消する。急な旋回は効率が悪かった。最もメリットが大きい旋回は4G(重力の4倍の荷重がかかる)旋回であった。パイロットによって若干の差があったが、多くの場合5Gでブラックアウト現象が見られた。つまり、パイロットにとって最も都合の良い旋回方法は結果的に機体にとっても最適な旋回方法であった。

 この知見は爆撃機の編隊に向かって降下する戦闘機などに応用することができる。戦闘機が爆撃機の下に潜ったのちに急激に引き起こそうとすると、パイロットがブラックアウトを起こすかもしれない。より緩やかな旋回で回ろうとすると、旋回において最もリスクのある瞬間は爆撃機の機銃の射程から十分離れることができる。

 高速飛行隊ではパイロットはそれぞれ12時間しか訓練飛行を行う時間がなかった。パイロットは特に特別な訓練を受けるわけではなかったが、(旋回時にブラックアウトなどの)症状を体験したことを告白するのはもはやパイロットの名誉にかかわる問題であった。(ハイGターンの影響を最小限にするため)弾性ベルトを着用して飛行してみたこともあったが、特に効果は無かった。有効な対策として襟元をゆるめることが良いとされた。高速飛行隊に所属した12名のパイロットのうち、50%以上の割合のパイロットが非喫煙者・禁酒者であった。

 シュナイダートロフィーレースという一種の刺激が無ければ、各界の専門家たちのすべての協力を得られることは無かっただろう。結果として生まれたのは「奇形のマシン(freak machine)」であったが、開発から得られた知見は非常に有用なものであった。かかった費用は莫大なものであったが、得られた知見は値段の割には安かった。あらゆる機体の進歩はコストと、大抵の場合人命が代償となったが、これらのほとんどは極秘裏で起こっていたことであった。この件について同氏は深入りしなかったが、ある簡単な南極探検の費用が、英国がシュナイダートロフィーレースに費やした費用の合計の約2.5倍かかっていたことを指摘した。また同氏は高速飛行への取り組みの恩恵は南極・北極探検と同じぐらい有益なものであると述べた。

 具体的な成果ではないものの中であったのが、人間的な要素の影響であった。高速飛行隊のパイロットにとって、300 mph以下のものは遅く感じられた。かつて、自動車の運転手は60 mphより速いスピードには耐えられないと言われていたこともあった。同氏は、シュナイダートロフィーレース機は商業飛行の高速化への道を示していると考えていた。